昨日MacBook Proが壊れてしまったという記事を書いた。しばらく放っておけば自然に治るという淡い期待もあったのだが、結局Proはいつまでたってもネットにつながらない。いまどきのパソコンでネットにつながらないというのはほとんど起動しないのと同義だ。

いったんProをスタンドアロンの動画編集用マシンとして使うことにし、デスクにおいてある2台のディスプレイのうち一台にクラムシェルモード(ラップトップを閉じた状態で使うモード)で接続して使うことにして、もう1台のディスプレイはLINUXマシン(ASRockのベアボーンキットを自分で組み立てUbuntuをインストールしたやつ)をつないで使うことにした。

ところがUbuntuのマシンのほうは、ネット閲覧や執筆には最適だがなんせベアボーンキットなのでWi-Fiもつながらなければmp4ファイルも再生できない(いろいろインストールすればできるだろうけど)。スピーカーもなく、ディスプレイのスピーカーから一応音は出せるのだが貧弱すぎて使い物にならない。Ubuntuは文章の編集や執筆に使い、もう一台のディスプレイは動画やSNSの情報収集に使うほうがやっぱり効率が良い。というわけで古いiMacをひっぱりだしてきて、ディスプレイを1台片付け、iMacとUbuntuマシンを二台ならべて作業する環境とした。Proはとりあえず倉庫に片付ける。いつかまた日の目を見る日が来るかもしれない。

そうこうしているうちにもEUはテレグラムへのアクセスをブロックし、ロシア国内ではツイッターへのアクセスがブロックされるようになった。これが本当のブロック経済か、などという冗談はさておいて、インターネットでは自由で開かれた議論ができ、自由に多様な情報にアクセスできるのだという幻想も崩れつつある。もちろん独自ドメインのブログや海外のニュースサイトのホームページなどは、それぞれのサービスをホストするサーバーがダウンしたりしない限りはVPNを使ってアクセスすることはできるが、一般の人々がそこまですることはまずないだろう。

一般人(という言い方も語弊があるが)はSNSに無料で流れてくるプロパガンダしか見ない一方で、多少ものごとの道理をわきまえている人は自分で検索して独自ドメインのブログや海外サービスから情報を取得していく。このようになると人々のあいだで分断が進むかのような報道や議論がなされているが、そもそも我々は分断されており、一元的な世界観や普遍的な思想というもののほうが特異だったと考えるほうが理にかなっている気がする。インターネットがない時代は、もっと我々が見ている情報は異なっていただろう。日本とアメリカでは全然違う世界観・情報環境だったろうし、同じ日本内でも、渋谷と新宿くらいしか離れていなくてもそれぞれの地域の人々はまったく異なる世界を生きていたはずだ。

これはワン・ワールド・オーダーみたいな幻想を追いかける人には不都合かもしれないが、本来の人間の世界というものはこのようにまったく異なる世界観を生きる人が集まっているものだ。地域的に隔たっていなくても、ほんらい個々の人々はまったく異なる価値観と情報環境で生きており、それでいいのである。「みんな一丸となって」とか「心を一つに」というのは共産主義のイデオロギーであり、学校やマスコミが刷り込むデマだ。そういうバカな幻想で集団をまとめようとするから、内ゲバになり内部崩壊していく。SNSや動画サイトで、主流派に不都合な考えや情報を発信するアカウントは次々BANされているが、あんな視聴者や読者を馬鹿にした話もない。情報の真偽や主張の是非の判断は情報の受け手の知性に委ねられるべきことがらであって、「これは偽情報だから君らには見せない」というのは配慮に見せた冒涜だ。

情報をBANするSNSはそういう冒涜を続けているのである。あれらのプラットフォームの没落が始まり、今後は個々の情報発信者を人々が自分で誰をフォローすべきか見極めて追跡していくようになる。これも一極主義から多極主義への流れのなかで理解することができる。

そしてそれに不可欠なのはLINUXのオープンソースOSだ。いまはSNSのサービスのレイヤーで情報統制が行われているが、そのうちMacやWindowsではアクセスできないウェブサイトとかが出てくるはずだ。あるいは、アクセスできるけどAppleIDやMicrosoftアカウント、Googleアカウントの評価がアクセスすると下がって、サービスの質が下がるとか。中国の監視システム・個人信用管理システム(これも報道されているほど真実かわからないけど)をバカにできない。こんなバカなシステムから距離を置くためのツールは必要不可欠だ。中古のWindowsノートPCを買ってきたり、ベアボーンキットを買ってLINUXをインストールしてLINUXマシンを手元においておくべきだろう。