昨日は「サラリーマンの終わり」という記事を書いたが、今日藤原直哉氏が「平成の理屈屋は終わり」というタイトルの動画をYouTubeに投稿していたので、いろいろな終わりが引き続いているんだなあと思った。サラリーマン的な近代的雇用形態も終わり、会社も終わり、イデオロギーも終わり・・・と羅列してくると、これをひとまとめにいうとやっぱり「近代的価値観の終焉」、ひいては「近代の終わり」ということになるのだろうと思う。

近代の終わり、なんて歴史区分から言えば近代はとっくに終わって現代になっているよなんて言われそうだが、現代も近代的な制度や価値観を継承した上にそのなれの果てみたいになっていくだけのプロセスだったわけで、ではどのようなものが近代的でそれがどのように終わっていくのかということを逐一考えていく必要があるだろう。藤原氏の「理屈屋」ということをそういうパースペクティブで翻訳してみると、それは「実体から乖離した観念論の暴走」ということで、現実・物理的な実在や実体から乖離した、精神の上だけでこねくり回す観念こそが正義みたいな考え方が終焉を迎え権威を失うということだ。

ヘーゲル哲学では「歴史は理性の自己実現のプロセス」というふうに言われるわけで、アタマの中でこねくり回したユートピアに向かって進んでいく一方向性の過程として歴史を把握するのがヘーゲル・マルクスの唯物史観だったわけだ。しかしこんなものが現実に生きていく上で何の役にも立たず生活の知恵を与えてくれるものでもないことは、戦後の左翼的な教育を受けてきた連中が人間的に全く成熟していない惨状を見るまでもなく明らかである。

同様の観念論は教育でも特にはびこっていて、「心を一つに」とか「夢は叶う」みたいなのも観念論だ。現実には人々は、家族であれ会社であれ、その他様々な人間の組織は理念ではなくて現実的利害関係の一致によって成立しているというのに、観念論が幅を利かす近現代においては「家族はかくあるべし」「会社はかくあるべし」というべき論や、一つの理念のもとに結集するのが偉いみたいなフランス革命的情緒が人々を呪縛している。最近では会社もビジョンが大事だとかパーパス経営だとか、そんな理屈をこねる暇があったら営業に行けというような議論ばかりはびこっている。

そんな観念論はどうでもよく、現実に根ざした生活や仕事、物理的に衣食住の必要が満たされて、身体的に満足が得られ、ゆとりのある時間を送った方がいい、ということに人々が気づいていく。コロナによって、都心でおしゃれな生活を送るよりも地方で落ち着いた、その土地土地の風土にあった文化と生活様式に従った日々を送るほうがいい、ということに気づき地方に引っ越す人も増えている。都会の「おしゃれ」な生活は所詮他人の欲望を消費するだけの観念論的空疎な生活で、人間の生活の実質はもっと違ったところにあるということにみんな気づき始めている。

近代という時代は、まさに近代自身が生んだ進歩主義的なイデオロギーによって人類の最高の到達点であるかのごとく喧伝され、それ以前に戻るということは生活も仕事もひどいことになるという思い込みが蔓延している。だが実際には、近代という異常な時代の異常性に人々がようやく気づき、本来の人間のあり方に戻っていくのだ。

すこしとりとめのない、分かりづらい文章になってしまったが、大きく時代は変わり始めており文章では捉えきれない部分も多い。自分の生活や仕事のリアルな実感や感覚を大事にしていけば、この大変化が肌で分かる感覚も研ぎ澄まされていくことだろう。