ブルームバーグに「収入減ってもいい-人生楽しむため負担の少ない仕事選択する動き」という記事が出ていた。表題のとおり、収入が減ったとしても労働時間を減らしたり仕事によって心身が消耗するのを避けることを重視し、自分のやりたいことや友人・家族との時間を優先する人が増えている、という内容の記事だ。
労働を忌避する動きは世界的な傾向であるようだ。グレート・リザグネーション、アンチ・ワーキング、クワイエット・クイッティング、日本のFIREや中国の寝そべり族など、これまでの「モーレツ」(古い)な働き方を辞めてもっと人生を楽しむべきだという潮流が生まれている。日本でいう「モーレツ」的な働き方を、中国では996(朝9時から夜9時まで働くのを週6日続ける)というらしく、996をやめて寝そべる、というのが最近の中国の若者のトレンドらしい。
こういう風潮は旧来的な勤労観からすれば怠惰であったり衰退であったりするように見えて、私自身もこうした記事や潮流の真相は、人々の勤労意欲を破壊して経済活動を停滞させ貧乏人をたくさん産み出して共産主義社会を作るための工作なのではないかと思っていた時期があった。
だが最近の世の中のバカさ加減を見るにつけて、いわゆるふつうに世の中で行われていることはやはりまともには付きあっていられない茶番だという確信が強くなってきた。正直なことを言えば、私が新卒の就職活動をしていた10年近く前、黒田日銀の大規模金融緩和が始まったころ、いろいろな会社や社会人と接するようになっても「世間はどうしてこうバカなことであふれているのだろう」ということを感じていた。高校や大学で出会う学生はともかく、まともに働いている社会人だったらもっと立派な人間がたくさんいるはずだろう、と思っていたのに、実際に目の当たりにする「大人」に、どうにも尊敬できる要素を見出すことができなかった。
当時は若さゆえの、青臭く斜に構えた厨二病的なナルシシズムだと思っていたが、10年後のいまになってみると実際に世の中が狂っていたのだということが明らかになってきている。学校では不登校になったり、会社では鬱になったり出社できなくなったり、いわゆる世間的な基準では標準からはみ出てしまったとされるような人たちのほうが、よっぽどまともな感覚と精神を持っているということがはっきりした。
なぜ一生懸命働くことがむなしくなってしまうのかといえば、それが「賃労働」だからだ。「賃労働」というのは自然発生的に生じたものではなく、世界の支配者層によって意図的に作り出された働き方だ。労働者の賃金は何によって決まるのか?カール・マルクスによれば、それは「労働の再生産コストに等しくなる」。つまり1日労働に従事して、その後また同じ労働に従事するための体力を回復するのに必要なコストの分しか賃金は支払われないということだ。
このことをかみ砕いて言うと「年収が高くなると生活コストも上がるので結局手元にカネは残らない」という、年収が上がったところで生活はさしてラクにならないというよくある話になる。年収が上がると、付き合いで飲みに行く店のグレードが上がったり、衣服や装飾品にカネをかけたりしなければならなくなったり、バカ高いマンションや自動車をローンで買って支払いに追われたりする。子供を私立に入れたりもしなければならなくなるだろう。さらに、会社での地位が上がるほどストレスフルな仕事になり、そのストレスを発散して翌日も労働に従事するために更にカネがかかるようになり、手元にあまりカネが残らない。現代の経済社会はそういうふうにデザインされている。このことが、「賃金は労働の再生産コストに等しい」ということの意味である。いつまでも穴を掘っては埋めるような作業になっていくから、まともな精神の持ち主だったら付きあっていられなくなるに決まっている。
ここから脱却するには、賃金を得るのではなくて資本の運用による利潤を得なければならない、というのがマルクスの説く「資本主義」だ。で、資本=生産手段は資本家階級が独占していてけしからんので、プロレタリアが団結しブルジョアを打倒し、能力に応じて働き、働きに応じて受け取る理想的な共産主義社会をつくりましょうという話になる。
もちろん「理想的な共産主義社会」だって実現不可能だ。なぜかといえば、個々人の能力をどう評価するのか?働きをどう評価するのか?という、共産主義を運営していくために必要な事務のコストが、市場取引によって生じるマイナス面のコストよりも上回ってしまうからである。フリードリヒ・ハイエクが社会主義・共産主義を批判して言っているのは畢竟そういう話だ。笑い話で「100万円の使い途を決める会議の弁当代で100万円使い切ってしまった」というのがあるが、社会主義共産主義が失敗する理由を端的に表している。
資本主義の中でまっとうに努力すればラットレースになり、社会主義・共産主義は失敗する運命にある。そうすると、庶民が現実的に取れる手段は二つしかない。一つは、得られた金銭の中から生産手段=資本になるものに少しずつ投資していくことだ。不動産でもいいし株でも債券でも商品でも、あるいは他人を使役するのでも何でもいいが、とにかく運用によってリターンが得られるもの、または利潤を生む生産手段を少しずつでも獲得していくほかない。同じカネを使うのでも、娯楽にも仕事にも使えるようなパソコンや書籍を買うようにするとか、そういう話だ。
もう一つは、それ自体が報酬であり楽しみであると感じられるような仕事をやるようにしていくということだ。資本の運用だけで食っていくことは現実的ではないので、やはり多少は労働にも従事しなければならないことになる。「労働」は勤め人として従事するだけでなくて、フリーランスとか自営業であっても基本的には同じだ。どのような立場でやるにせよ、従事する仕事が自分にとって楽しみが大きいか、負担が少ないものの割合を増やしていく必要があるだろう。また、やっていくうちに自分の経験や技能が蓄積していくようなもののほうがいい。最近はプログラマが流行っているが、これはすぐに自分のいま使っている知識や技能が古くなってしまうので、若いうちはいいが年を取ってくると大変になってくる。料理人や、工芸品を作る職人のほうが、同じ知識や技能を深化させていくことができるので長くやっているほどラクになり、上達していきやすいだろう。目先の給与の良さよりも、そういう観点で仕事を選んだほうがいい。昔ながらの言葉でいえば生業となるような、惰性で続けられるようなことを仕事にしたほうが、人生の満足度は上がるだろう。単に働かない、何もしないというのは芸がないし、自分が困るだけだ。賃労働を降りて、生業に精を出すべきだ。