最近になり、これまで受けてきた教育や報道の背景にある隠された意図や計略が明らかになることが増えてきている。教わってきた、流布されてきた歴史には多大な嘘や隠蔽がされていた。大手を振って歩いている情報は、たいていが誰かが流している、人々を支配し洗脳するためのデタラメに過ぎない。だがそれも、大学などの教育機関やマスメディアによって喧伝されることによって、多くの人が真実だと錯覚するようになる。「ウソも百万回繰り返せば真実になる」とはゲッベルスの言葉だが、繰り返し繰り返し、それとわからないようにひっそりとすり込まれることによってデタラメも真実と思わされてしまう。

 パンデミックの前にも、隠された意図や教わらない事実といったものを伝える書物やサイトはたくさんあった。しかしそれらの多くには「陰謀論」というレッテルが貼られ、社会の片隅にひっそりと、気づく人だけが気づくように転がっていた。そのような抑圧された事実に興味を持ち調べる人は「陰謀論者」のレッテルを貼られ、主流派からは白い目で見られる。まさにそのような「空気」を醸成するためにこそ学校やマスコミは存在しているので当然なのだ。そして「きちんとした大人」として社会生活を送るためには、そのような「白い目」で見られることは避けなければならない。生活のためにはそれもやむないことであった。

 だが、いまや世間体で行動していると生死に関わる事態になってしまった。その背後の意図はともかくとしても危険なものにはノーを突きつけなければならない。

 これまでなんとなく信じていた世界観や価値観が音を立てて崩れている。崩壊した権威や世界とは別のものに移っていこうとしばらく格闘してみたが、それも詮方ないことのようである。結局のところ社会や世界の真実はわからない。疑えばキリがなく、これが真実と思い込む確信はやがて疑念と後悔に転じる。

 奴らが登場してくるのは今に始まった話ではない。おそらくは人類の誕生以降、奴らと似たようなことを画策し実行している連中はごまんと現れたはずだ。今回あるいは現代、日本においては奴らが仕掛けているにすぎない。奴らがいなくなればまた別の誰かが同じようなことをするだけだろう。つまり支配構造そのものを変革することはできない。幸か不幸か我々はそういうふうに生まれついていない。ではいかにして生きていくべきなのかということだが、これは魂を整えて生きるということに尽きるのである。

 具体的には、妙な話だがたとえばもう世界情勢のことで気に病まないようにするということも含まれる。世界とか社会は、急に悪くなっていまのようになったのではない。もともと「そういうもの」なのだ。我々が気づくと気づかざるとに関わらず、こんなふうなものなのだ。それこそ学校やマスコミが刷り込んだ世界観がある。そしてそれとはまったく異なる世界の実像がある。そのギャップこそが、無力感や絶望を生むものだ。ラディカルに考えれば、そもそも世界観なる偏見を持たないようにすればよい。哲学の歴史では、現象学がこの試みにあたる。世界観による先入観を捨てて、現象をあるがままに見ようとする。これが現象学である。どうということもない、東洋では古来から当然の思想だ。

 自分がすでに確立している世界観を崩すということは、人間が遭遇するもっとも困難な課題である。とりわけ、社会が極めてデジタルな情報で満たされ、アナログでアンビバレントな状態や情報は価値の低い、程度の低いものとして蔑まれる現代にあってはなおのことである。人間は自分の世界観に合致しない情報はそもそも認識できない。これを超越するためには、自らの世界観を自ら解体し、その上で魂が導く方向へ知性を働かせて情報を集め最終的な判断を下すほかない。

 従って生き抜くためには魂を整える必要がある。具体的には邪念やノイズを極力認知空間から排除する。精神を乱す人や物、場所に近づかない。良質な睡眠を取る。適度に運動する。神に感謝する。新鮮な空気を吸う。瞑想を行って邪念を除去する。金は経験や知識、貴金属や現物に替えておく。以上のような、昔の人間は当たり前に行ってきた禅的な生活様式を守ることである。

 こうすることによって、言語化された情報や理性、合理性ではたどり着けない冥界とのチャネルが開く。現世の凝り固まった世界観を脱構築し、生者の世界と死者の世界とをリンクさせることで、この世を去った先人たちの知恵が身体に充満してくる。現世の人間の考えることなど高が知れている。言語さえ生まれる以前からの生命体としての知恵と真理は、冥界との交信によってはじめて生きている人間に開かれてくるのだ。