最近個人的なグレートリセットを実行した。

 持っていた本の大半をブックオフに売り払って、本棚も2台ほど処分することにし、古い服やこまごました印刷物や資料なども大部分をシュレッダーにかけて可燃ゴミとして出した。中には大学時代の講義資料やノートなどもあったが、別にこれが将来役に立つことなど100%ないので、後腐れなくシュレッダーにした。中央銀行の役割?ガバナンス?民主的な意思決定のための組織改革?すべてクソ食らえだ。いまの経済学部の大学生はかわいそうに。

 シュレッダーにかけながらそうしたノートや、隙間に書き付けたメモをなんとはなしに読んでいると、自分自身のメンタリティというか思想の根幹にあるものがまったく変わっていないことに驚かされる。もちろん表向き問題となっているテーマはその時々で変わるのだが、根底にあるものは「日本の世間になじめない」という問題なのだ。

 日本人で一定以上の教育を受けた人間は誰もがおそらく感じるであろう、日本社会の「個々の人間は悪くないのに、集団と化すとなぜこうまで揃いも揃って愚かになるのか」という問題に、ずっと形を変えて悩まされ続けていたのだ。

 10代や20代の頃は、そのなじめなさと世間の外圧との戦いにもなんとなく意義を見いだしていたのだが、コロナやらウクライナやらの茶番がすべてを変えてしまった。自らの身体の状態や科学的医学的な知見を踏まえて、個々の人間に対して判断が委ねられている問題に関して、多くの人が未だに世間に流されている。つまり顔に当てる布を、政府が外せといってももう外せない強迫観念に支配されている人々があまたいる。

 そういう話題を見聞きするにつけ、確かにこの国には個人がおらず、従って個人が集まって形成するところの社会なるものは存在せず、ただ感覚的な、得体のしれない「世間」だけがぬるりと存在するという現実が身にしみて感じられるのである。

 そして、その「世間」からの逃避先として機能していたのが「近代的社会」という幻想だった。近代的な個人が集まり、近代的な法制度と価値観によって運営される、世間のしがらみのない、合理的な社会。科学的知見や客観的データ、合理主義的な思考によって、前近代的な世間から脱却し、個人として尊厳を持って生きていくことができる。

 コロナはその幻想も木っ端みじんに粉砕した。これもある種グレートリセット的だ。

 このクラブでも一応FIREということを標榜しているが、いまの勤め人がFIREを目指したいメンタリティというのは、金持ちになりたいとか資産家になって配当で食っていきたいということよりも、このいわく言いがたくどうしようもない世間から逃れたいという感覚のほうが大きいのではなかろうか。働かずに食っていきたいとか大金持ちになりたいとかではない、単純に仕事は仕事としてやってそれなりの所得を得て、平穏に暮らしていければいいだろう。それが難しい相談なのだが。

 で、ユーラシアに目を向けよう、である。

 処分せずに取っておいた本の中に邱永漢の著作があり、手元に1993年に発行された「アジア的スケールでものを考えよう 日本脱出のすすめ」という本がある。このまえがきに、「・・・すべての文章に共通した私の立場がある。それは豊かになればなるほど日本が住みにくいところになり、だんだんガマンできなくなってきた苛立ちに裏打ちされていることである」とあるのだ。

 文字通り、豊かになるほど住みにくい国になっていくということが書かれているが、これが1993年の話である。バブルからその直後でさえ住みにくい国と化していたのに、いまや貧乏になっていく上にさらに住みにくくなるという地獄のような国になってしまった。子供はグレて嫁は家を出て行き、会社では陰湿ないじめ、皮肉、当てこすり、下請けいじめなどが陰惨を極めるようになっていくだろう。ロクな商売も仕事も日本には残っていない。

 「世間」のうっとうしさを人々に許容させていたのは経済的な利得にほかならない。世間に属したればこそ、仕事もあり、結婚相手も見つかり、日常の便宜が図られ、日本経済の繁栄のおこぼれにありつけたのである。それがいまや大不況、いや大恐慌の嵐が吹き荒れるなかで、人々は世間から以前のようなリターンを得られなくなっているにもかかわらず、ますます世間のうっとうしさに逃避している。

 この環境では共食い・共倒れになっていくことは必然だ。学校や職場でのいじめ、各種のハラスメント、家庭内の不和、陰湿な対応、これらはすべて不況が原因だ。いじめる人間が性悪だとかいやな人間だとか、いじめられる人間がひ弱だとか覇気がないだとか、まあそういう側面もあるにはあるだろうが、本質的には不況が原因だ。それを個人の努力や性格、思想の問題にするからややこしくなる。

 こういう環境で消耗して死んでしまわないためには、外に目を向けていくほかない。日本で陰惨に死ぬのと、ユーラシアの広大な大地でからりと討ち死にするのと、同じ死ぬならどちらがマシか。私はいま30歳だが長生きするにしても80とか90まで生きたいとはまったく思わない。50過ぎくらいまで生きれればいいだろう。日本という国が提供してくるシステムにはどのみち馴染まないことが30年間で骨の髄まで身にしみて理解したので、老後も国に頼ることなどできないだろうし、だとしても自分で備えるためには日本国内では十分な金を稼ぐこともできないだろう。

 そういうようなわけで、私は以上のような感じで考えているので、日本でくすぶっていたくない人はユーラシア(ロシア、インド、中国、ASEAN、中東)に目を向けていきましょう。不要なモノはブックオフで売って処分して身軽になって、ロシア語・アラビア語・中国語を学びましょう。