最近ハマって見ているYouTubeチャンネルに、伊比裕一郎チャンネルがある。

 伊比さんは福岡で活動しているYouTuberで、本業はミュージシャンのようだがこの狂った世の中で楽しく生きていくための知識や情報を発信している。この動画のほかにも学校で習う歴史のウソを暴く動画を多数投稿されている。世界史や日本史の出来事を、教科書に載せられて広められているデマをベースに解説しているので大変わかりやすい。YouTubeでも頻繁にBANされているようだが複数チャンネルを作って再投稿したりするなどたくましく活動されている。

 その中で最近私が見ている動画の内容は、「縄文時代は高い技術力と精神性を持った平和な時代であり、1万年以上続いた」というものだ。5次元世界からやってきたムーの民は日本列島で平和に暮らしていたが、弥生時代に入って侵略を受けた。縄文土器は複雑で精巧なデザインになっていたが、弥生土器は極めてシンプルな作りだ。

左が縄文土器、右や弥生土器。 画像出典:http://www2.japet.or.jp/eltt/society/juniorhigh/so_j04_01.html

 このような違いが生じるのは、弥生時代は侵略を受けたため土器にこだわっている時間がなかったからだという。また弥生時代以降、古事記や日本書紀などの歴史記録が残されるようになったが、縄文時代にはそのような記録は残されなかった。それは記録するような争いや苦悩がなかったからだという説明を伊比さんはしている。

 この仮説が大変魅力的でありそうなことに思えるのは、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』でも同様の仮説が見られるからだ。同著では「人間は定住を始めたことにより、狩猟採集を行うために発達してきた脳の力を持て余すようになり、その結果宗教や法律、科学や哲学など高度な精神文明を築くに至った」という内容を解説している。簡単に言えば、文化とか宗教は「退屈の結果生まれた」という主張だ。現在の人類が登場するのはおよそ400万年前だが、定住が開始するのは1万年前である。その1万年の間に、我々がいま有史として知っている、文字によって記録されているすべての歴史が展開している。それは定住によって人間の能力がそこに集約されたからだ、というわけである。

 この能力の「持て余し」は、副作用ももたらした。それがいじめや精神疾患だ。定住によって、本来なら狩猟採集で発散されていたストレスが集団の中に蓄積されるようになる。それが集団内の別の人間に向けられればいじめが起こり、自分自身に向けられれば鬱や気分の低調などの精神疾患となる。コロナ禍のステイホームでも、精神疾患となったり、そこまでいかずとも家庭や職場がさらにストレスフルなものになったという実感を持った人が多いと思う。それらは、本来は狩りにいって発散されるべきフラストレーションが蓄積した結果生まれたものであり、誰のせいでもない(ステイホームを強要した連中の責任だ)。

 縄文人と弥生人は大分考え方が異なり、伊比さんによれば縄文人はとにかく争わないのだという。なぜなら戦っても無駄だから。無駄な争いはしないのだ。たとえば署名活動やデモを行っても、本人たちは満足かもしれないがなにも変わらない。デモは本来、支配者が警察や軍隊のコストをかけずに民衆の体力を奪うために開始されたものだ。そのような争いをしない代わりに、適当に棲み分けて平和に暮らすことを選ぶのである。

 こういう縄文的な考え方は、私がずっと抱いていて、周囲からもの凄く批難されたものだ。記事や動画を見ていただければわかると思うが、私はとにかく争わないで生きていきたいと思っている。かといって競争を否定しているわけではない。私のこの感じをどう説明したものか30年悩んできたのだが、近代科学の語彙を使って説明すると次のようになる。

 正しさは相対的なものであって、仮説には常に反証可能性が留保されていなければならない。その検証のためには常に柔軟に、社会全体で利用可能な情報が開かれており、自由に意見を交換できる状態が維持されなければならない。ある仮説の正しさを他人に強制することは、理性の「致命的な思い上がり」である。

 「致命的な思い上がり(The Fatal Conceit)」とは、経済学者フリードリヒ・ハイエク(1899〜1992)が社会主義・全体主義を批判する書籍のタイトルでもある。

 ハイエクが社会主義的な計画経済への批判として述べるのは「どのような財が、どこで、誰に、いくら必要になるかということは事前に計画して決定することはできない」ということだ。それは個々の経済主体が、さまざまな情報をやりとりしつつ、直観や勘といった動物的感覚も発揮しながら、微調整を繰り返しながら決まっていくことである(これが市場メカニズムである)。過去の統計データは、そのような微調整が繰り返された結果行われた活動のたんなる記録にすぎず、それをベースに将来予測をしたり必要量を事前に計画して決定することは不可能である。人間の理性はそれほど完全にはできていない。それが可能であると信じることは理性の「致命的な思い上がり」である、ということだ。

 左翼/右翼という区分は、通俗的な理解では「革新/保守」とか、「グローバル/ナショナル」といった対立軸として語られることが多いが、西洋哲学の伝統に基づく右派・左派は、理性の無謬性に関する理解の違いで分けられる。理性によって社会や世界を設計・構築することが可能だと考えるのが左派であり、そうではなく人間の理性には限界・欠陥があり、だからこそ伝統や文化、市場を重視するべきだと考えるのが右派である。

 実際に人間が生活し仕事をしていく上では、言語化できない、客観化されない情報も大量に用いる必要がある。「情報」は、言語や数値によって記述されるものもあれば、定量化できず、言葉で表現することもできない勘や感覚によるものも多い。というか実際に役に立つのは言語化されない直観的な情報のほうだ。

 理性万能主義の左翼は、「すべての情報は人間理性が把握でき、それを用いてよりよい社会を設計できる」と考える。右派は、そんなことはありえないので、急進的な改革や設計主義に反対し、感覚的なものや直観的なものを重視する。伝統や文化、習慣といったものは長い時間をかけて生み出された知恵の産物であり、浅はかな人間理性が考える程度のことでは容易には否定できないものだと考える。

 そもそも西洋哲学はプラトンに始まるが、これはありとしあらゆるものすべてのありようを考察するという、きわめて特殊な考え方だ。「哲学」はPhilosophyというが、これはどの言語でもギリシア語の単語がそのまま入っており、ギリシアで生じた特異な概念であることがわかる。自分自身もその一部である「世界」というものを、総体として考えるという見方はギリシアで起こった妙なものだ。哲学者の中島義道も、「哲学は、ヨーロッパでやってる変な考え方にすぎない」というようなことを言っている。

 「ありとしあらゆるものすべてのありよう」を考える議論を「存在論」というが、これも英語ではOntology(オントロジー)といい、ギリシア語で「ある」を意味するontに「ロゴス」をつけた人工的な言葉で言い表されている。存在論というといかめしいが、ものごとは「作られてある」のか、「成り出でてある」のか、というのを考える議論だ。

 「そんなことを考えてどうするんだ」と思われるかもしれない。確かに、実体として手に触れられるモノなら、たとえば木はなんとなく生えてきて存在しているものである一方、ペットボトルはポリエチレンテレフタレートを合成して成形して作るのだから作られたものだ、という理解で議論は終わる。だが、これが法則とか概念とかになってくると話がややこしくなってくる。秩序や法則といったものが、「作られた」ものなら「俺も作れるはずだ!」と考えて、演繹的に作った法則を他人にも強制して許されるのだということになってくるし、「いや、秩序というのは自然に生じてくるもので、他人に強制するようなもんじゃない」という生成的なものだと考えると、まったく真逆の発想をすることになる。

 じっさいハイエクの議論においても、市場経済が正しく機能するためには、中央が押しつける計画や規則ではなく、個々の経済主体の自由な活動により生成してくる秩序が重視されるべきとされている。ところがこの自生的・生成的な秩序というものが、「秩序は神が作るもの」あるいは「秩序は理性が作るもの」という機械論的世界観においては理解されないのである。

 哲学の領域ではイマヌエル・カントまでは「理性は万能ではない」ということで考えられてきた。彼の主著といえば「純粋理性批判」である。「純粋」というのは経験によらないという意味だ。「批判」はドイツ語でKlitik(クリティーク)だが、これはもともとのギリシア語では「切る」とか「範囲を決める」といった意味だ。つまり、「純粋理性批判」では人間がもともと生まれもった能力が及ぶ範囲とはどこまでなのかを考察するということだ。カントの議論では、人間は外界をあるがままに理解することはできない。あるがままの世界は「物自体(Ding an sich)」として存在しているものの、人間理性は人間にもともと備わっている「認識のカテゴリ」を通じてしかそれを把握できない。「認識のカテゴリ」にはたとえば因果関係がある。因果関係は人間が生まれつき認識できるので、コップに反射した光が眼に入ることで、因果関係を遡って人間はコップを見ることができるのである。

 カント以前は人間理性は外界をそのまま受動的に知覚していると考えられていたのが、理性は外界の「物自体」から受け取ったデータを元に構築した世界を知覚しているのだと唱えた。これがコペルニクス的転回と呼ばれているもので、認知科学の研究によって知覚は脳が作りだすものであるということが確認されている。

 いずれにしても、人間理性は物自体をあるがままに把握することはできない、というのがカント(1724-1804)の時代の常識だった。これに対して「そんなはずはない、理性はもっと万能であるべきだ」と考えたのがヘーゲルである。ヘーゲルといえば止揚(アウフヘーベン)が有名だが、これは理性はいまは不完全だが、対立するテーゼとの矛盾を乗り越えることを通じて進歩していき、最終的には万能の理性になっていくというファンタジーである。テーゼと対立するアンチ・テーゼが衝突し、その矛盾を乗り越えてジン・テーゼへと進歩していくとして、これを弁証法と名付けた。これがマルクスに受け継がれて、社会は階級闘争の矛盾を乗り越えて最終的に共産主義社会に到達するという話になったわけだ。

 「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」という理想は、すべての人の能力を明示的に測定し観測し記録し評価することが可能であり、かつ働きの度合いも同様に明示的に測定できる、ということが前提になっている。だが誰もが経験的に知るように、人の能力や仕事の成果を明確に言語化することなど不可能である。理屈の上から言っても不可能だし、仮に理論的に可能であるとしても実際には測定・記録するコストの方が上回るため、実務上は不可能だということになる。ものごとは言語化されない情報によってこそうまく動くからである。当今流行のAIだのスマートなんちゃらだのといったものも、以上の議論からうまくいかなくなることは明確である。

 東洋には老子の「道の道とすべきは常の道に非ず」という教えがある。これは「言語によって表現できるような真理は、ほんとうの真理ではない」という意味だ。老子がこれを唱えたのは紀元前600年頃と言われており、プラトンに始まる西洋哲学が2500年も解きあぐねている問題は東洋ではすでに解決済みなのである。

 ちょっととりとめのない話になってしまった。最初は縄文時代についての動画(下に掲載)の話を書きとめておこうと思って書き始めたのだが、私自身が西洋合理主義を礼賛するように東京の施設で長いこと洗脳されていたので、その恨みもあって筆が走りすぎてしまった。東洋思想や縄文時代についてはまた改めて書きたいと思う。